生化学の復権

僕が大阪大学医学進学過程に入学した 1969年当時、若い理科系進学希望者の夢は生化学でした 生化学が華々しい成果を次々と上げ、皆の希望の星でした 誰しもが生化学の道に行きたい、そこで成果を上げたい、そのように思っており、僕もその一人でした

2年間の教養過程を終え、晴れて医学部に進学し、中之島の医学部に通い、解剖学、遺伝学、放射線医学、薬理学、生化学などの基礎医学を学びました その中に、阪大には栄養学講座というのがありました 2年間の基礎医学過程の最後半年間は、大学のゼミのよう、基礎医学のどれかの講座に配属となり、そこで自由に遊んだり、研究のかじりをしたり、とにかく学生それぞれが自分の意志で進む方向を決めるしきたりでした 僕は栄養学講座に進み、そこでピルビン酸キナーゼ (Pyruvate Kinase)のアイソザイム測定のための、精製を行うことになりました 当時、PKにはMM, MB, BBの三種の型のアイソザイムがあることが分かっていましたMは筋肉由来、Bは脳由来なのであり、通常の人血液中には、MM/MBしか存在しないのですが、確か担癌患者さんでは、異常にBB型が増加するのかな? あれっ忘れてしまった

とにかく、そのような理由でPKを精製してそれに対する抗体をさ作成してこのアイソザイムを測定するのが最終目標だったのです これまで憧れの生化学、それをできるんだ、と夢に喜びました そして、その作業に先輩の助手の方のご指導の下で入りました 筋肉から精製していきます 最初は10Kgぐらいの筋肉を集め、それを精製し、最終目標のPK結晶は10mgぐらいも回収できれば大成功、という目標でした 何とかクロマトグラフィーとか、酸や、塩基にさらしたり、加熱したり、冷やしたり、分子篩にかけたり、色々な操作をして、PKの濃度を濃くしていくのです PKがきちんと精製されているか否かは、各段階でPKの活性値を酵素反応を利用して測定し、どの分画に濃度が濃いのか、それを調べていくのです 当然のことながら機能性蛋白であるPKは非常に不安定な物質なので、途中で作業を休む訳には行きません 時には3日間全く睡眠をとらずに測定や分離作業を続けねばそこまでの努力が無に帰するのです そうして何とか2週間かけて最後までやりました

この過程で僕が学んだのは、傍から見ると華やかに見える生化学というのは、実は現場では肉体労働の非常に泥臭いものなのだ、ということでした そして、僕があれ程にも憧れていた生化学の夢はそこで終わったのです

それから40年余りが経過しました 昨日夜湘南鎌倉総合病院講堂で第7回江ノ島セミナーが開催され、国立循環器病センター研究所長の寒川 賢治先生をお招きしてご講演を頂きました 先生は世界的に有名な研究者で、これまでにあの NP family (ANP, BNP, CNP)だけでなく、グレリンや、その他の機能性ペプチド(ホルモン)を多数発見され、その真の生体内機能を解明されてきた先生です 昨日のご講演の中で僕にとっての衝撃は、グレリンはたかだか28個のアミノ酸が一鎖で接合したペプチドですが、N末端から三番目のセリンが、アシル基結合で脂肪酸を持っていないと、全くその生理活性を示さない非常に特殊なペプチドの存在でした この脂肪酸の酢酸基の個数が8個の時に最大の生理活性を有するのだそうです 何が衝撃か? というと、これまでゲノム ゲノムと世の中騒いでいて、遺伝子配列で生体活性が決まるかのように思われていたのですが、何とグレリンの例は、生体では実際にはそのようではない、ということが判明したからです これは、最近20年間ぐらい生化学がゲノム研究や、免疫研究により押されていた事態に対する、生化学の復権そのものではないでしょうか?