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2年たらずぶりの長崎

昨日は 長崎みなとメディカルセンターを訪問し、Coronary Orbital Atherectomyの proctoringを行いました。もちろん、竹下くんが指揮しておられるカテ室です。

前回の長崎訪問は 2018/03/02であり、この時は 長崎虹が丘病院で「九州TRI研究会」の一環でライブ治療を放映させて頂きました。それから気がつけば、2年に近い空白ぶりの長崎でした。この間に、皆に隣接して県庁が新たに建設され、景色が変わっていました。

長崎みなとメディカルセンター
長崎みなとメディカルセンター

 

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光藤先生との思い出 – 続き

大混乱の中、デルタ航空にマシンで check inして、今ようやく Delta Loungeに入り込みました いやあクリスマスシーズンだからでしょうか、Minneapolis-St.Paul空港は大混雑です。こんな混雑見たことありません。

さて、その 1992 or 1993年のことですが、僕と光藤先生は、二人であの有名な Mayo Clinicそしてカナダのこれもまた有名な、Toronto大学のカテ室に見学に行くことにしたのです。そして、そのアレンジをしてくれたのが、当時の ACS社、日本にはこの会社設立されず、かわりに G兄弟社という商社がその販売を担っていたのです。もっとも ACSはその後 Guidantという会社に買収され、またそのGuidantは現在の Abbott社に買収され、今に至ります。

その ACSがこの時のアメリカ-カナダ訪問をアレンジしてくれたのです。そして、Mayo Clinicと Toronto大学カテ室およびカテ室チーフの先生に連絡してくれ、日にちがおさえられ、それに併せて僕と光藤先生は飛行機の予約をしたのです。最初の目的地は、Mayo Clinicのある小都市 Rochesterでした。Rochester空港は少なくともその当時は日本の地方都市空港よりも小さな空港ビルディングでした。

事前の打ち合わせでは、Rochester空港に到着すれば、Mayo Clinic担当の ACS営業社員が僕たちを待っていて、そしてそのままホテルにつれて行ってくれることになっていました。

何処で乗り継いだかは覚えていないのですが、成田空港から18時間ぐらいかけてようやく Rochester空港に降り立ちました。そこで迎えの人、当然初めて会うことになっていたのですが、その男性と覚しき人が待っているはず、しかし、待てど暮せど、1時間は待っていたのですが、誰も現れません。そしてついに小さな空港待合室には僕たち二人以外誰もいなくなりました。

「これはすっぽかされたな」と思ったのです。しかし問題は、その時宿泊するホテルが何処で、連絡先は何処か、あるいは担当者の名前や電話番号、そして日本側での連絡先、それらの情報が全く無かったのです。もちろん、そのような情報をきちんと確認せずに動いた僕たちが悪いのですが・・・・

当時は携帯電話も無く、また国際電話をかけるのはとてもとても大変であり、また高額だったのです。でも僕には光藤先生がおられるし、もちろん光藤先生には僕がいたのです。二人でこれからの策を練りました。まずはホテルの確保ですが、そこに移動するためには、レンタカーを借りる必要があります。幸い当時は保持していた国際運転免許証がありましたので、それで空港でレンタカーをまず借りたのです。多分11:00AMぐらいだったような気がします。まだ若かったのです時差ボケにもほとんどなっていませんでした。

とにかく Downtown Rochesterまで車を走らせ、何でもいいからホテルを探すと、交差点のところに、多分 Holiday Innがあったのです。そこのフロントに行き、「二人止まりたいのだけど」と二部屋確保したのです。それからまずは Family Restaurantで昼食を摂りました。そして、ホテルのフロントで City Mapをもらい、Mayo Clinicを探し、とにかくカテ室を探し、そこに行くことにしたのです。そして、昼ごはん食べた後、二人で向かいました。病院駐車場に駐車し、二人で、Catheterization Laboratoriesという院内標識を探しました。今にして思えば無謀でした。何しろ世界でもっとも有名な大病院です。

幸い、僕たちはその標識を発見し、入り口まで行き、そこにいたナースか技師さんに、「これこれしかじかの者で、本日は見学の約束がある筈です」と申し出たのですが、「そんな約束は無い」と断られたのです。いくら言っても無駄でした。

仕方がないので、また二人でホテルまで車を走らせ、あっそうだ、光藤先生と二人でアメリカやヨーロッパを何回も、何千キロもレンタカーでドライブしましたが、その時は、何時も僕が Driverで、光藤先生が Navigatorをされましたが、とにかくホテルに戻ったのです。そして多分眠りました。流石に時差ボケが出てきたのですねっ。

そもそもカテ室見学は二泊の予定でしたので、翌日は一日まるまる予定があきました。朝二人で地図を見ていたところ、ミネアポリスという街の名前が目に付きました。Rochester – Minneapolisは 135Kmぐらいです。Minneapolisは当時よりペースメーカー製造販売会社 Medtronic社があることで僕たちもその名前を知っていたのです。それで、別に Medtronic社を尋ねるつもりはありませんでしたが、とにかくその街に行こう! ということになったのですね。

例によって僕が運転し、連邦高速道路を一路西に Minneapolisの標識を目指し走り出しました。半分以上過ぎた頃には、これまで出ていた Minneapolisという標識が無くなったのです。道を間違えたか? と思ったのですが、やがて Twin Cityという標識が突然出てきました。そこで思いを巡らし、ひょっとして Minneapolis – Saint Paulと高速道路を挟んで並び立つ2つの都市をまとめて Twin Cityと呼ぶのだろうと推測しました。

さて、翌日も借りたレンタカーで、光藤先生と二人、「さあ、一日どうしようか?」と相談しました。その翌日には Rochester -> Toronto行きの便が確定しており、そのチケットは日本にいる時に入手していましたので、Rochesterでの日程最後は確定していたのです。結局、一日全くフリーとなりました。それで Minneapolisという聞いたことのある街に行ってみよう! ということになったのです。

高速道路を例によって僕が運転し、光藤先生は隣の助手席で navigateです。一時間以上も走った頃だったと思います。無性に眠く慣りましたので、路肩に車を停め、僕は仮眠しました。光藤先生はその間、車を離れ、ランニングされたのだと思います。仮眠から醒め、気づくと隣に光藤先生がおられませんでした。辺りを見回すと、高速道路とT字路に直行する砂利道が見えました。道の隣は川幅2mぐらいの川が2 – 3mぐらいの谷で上流に向かって右手に流れていました。道はゆったりとした上り坂だったのですが、これを見て、「あっ、みっちゃんはこの道をランニングして登っていったのだろうな」とピンときました。

そこでエンジンをかけ、その方向にゆっくりと登って行ったのですが、すぐにランニングして降りてくる光藤先生と合流しました。運転席は左手であり、僕はそちらに座り運転です。助手席の光藤先生側、つまり右手は崖となっており、僕の側は2-3mぐらいの深さの谷に川が流れているのです。道は舗装されておらず、砂利道でした。僕の運転するカムリでゆっくりとその道を降りて行きました。

カーブがあり、少しだけブレーキを踏みました。途端に前輪駆動のカムリが右に滑りながら曲がって行きました。ここからは目の前の景色が走馬灯のようにゆっくりと流れ出しました。全身からアドレナリンが大量に放出され、体感時間がゆっくりと流れだしたたのです。このまま右に行くと、光藤先生の座っておられる助手席は右手の崖にぶつかる! そう判断し、ブレーキ踏みながら左手にハンドルを切りました。とたんに車のコントロールが効かなくなり、そのまま左手の谷に向かって車は落ちようと進んでいきました。前輪駆動の前輪が両側とも谷に向かって踏み出しました。「あっ、このまま落ちてしまう」と思ったところで、谷の脇から生えていた木の枝に前輪が2つともひっかかり停止しました。

「助かった、でも下手に体動かすとバランス崩れ、谷に落ちてしまう」と二人で言いました。しかし、前輪駆動のカムリはバックしようとしてもできません。「もう頑張って車から外に出るしかない」と結論し、ゆっくりと外に出たのです。

何とか助かったのですが、自動車はそのままで、動かしようがありません。途方に暮れて二人で道端で呆然としていると、数分後に古い古いトラックがゆっくりと降りてきたのです。運転しておられたのは、左手を失っておられた60歳ぐらいの男性でした。とても強い訛りがあり、お互いに何を話しているのか身振り手振りでした通じないのです。それでも、どうやらトラックの後ろの荷台に乗れ、と言っておられるらしいとわかりました。それで二人で荷台に乗り込むと、トラックは少し高速道路を走り、近くの小さな街、というか色々な店が集まっている場所で止まり、そこのある一軒におじさんは僕たち二人を招き入れました。

おじさんは、どうやらそこの店主に我々の置かれた状況を説明されたようです。僕たちにはその会話を聞き取る英語力はありませんでしたが、今度は、その店主がレッカー車を運転し、どうやら我々にそのレッカー車に乗り込めと身振り手振りで指示されました。

レッカー車は我々が落ちかけた現場に戻り、今度はそのレッカー車で僕たちの車を引っ張り上げてくれたのです。それで、レッカー車についてカムリ(ラッキー まだ正常に動作していましたよっ)でお店まで戻りました。僕たちを連れて来て下さったおじさんは既に姿を消しておられ、お礼の挨拶もする暇がありませんでした。お店につくと、随分と安い請求書を見せられ、多分 10ドルぐらいだったかなあ、それをお店で支払い、ようやく高速道路に復帰し、そしてやっとこさまず、St Paulの街に行き、そこで見つけた「寿司屋」さんに入り、ゆっくりと昼食を二人で食べ、そして Minneapolisに行ったのです。でも正直何も覚えていません。

覚えていて鮮明に記憶に残っているのは、親友 光藤 和明 先生と過ごした濃密な時間と空間です。何事にも代えがたい思い出です。

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光藤先生との思い出

暗く寒いミネアポリス
暗く寒いミネアポリス

今、新しい心臓治療ディバイスのトレーニングで Minneapolisに来ています。以前この街に来たのは、多分1992年ぐらいでしょうか。それからなんと27年間ですね。この街は以前より医療機械の会社が集積している街として有名です。

あれは、まだ冠動脈ステントが実用に供される前のことで、ぼちぼちDCAが世に出る前のことです。要するに冠動脈治療と言えば、バルーンしか存在せず、ACS (Advanced Cardiovasculr Sytems, Inc)は Goeffry O Hartzler先生、Simpson先生の指導の下で、バルーンの細径化と、Performanceの向上に努めていました。そして、USCI (United States Cardiac Instruments, Inc)は Gruentzig伝統のバルーンとそれを改良し、On-The-Wire balloonとして、Gruentzig Balloonを強化・改良した Probeというワイヤーの先にバルーンがついているシステム、これはその後 Boston Scientificの前身であった、SciMed(サイメド)そしてその会社を買収した あー 名前忘れた その会社にとられ、ACEという名前で実用化されましたね。

あっとそろそろ日本に向けて出発です この続きはまたね

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鎌倉ライブも終わり、今はアメリカです

イスラエルから戻った後、14/15日 (土曜日・日曜日)と鎌倉ライブデモンストレーションを開催しました。今年はあまり参加して下さらないのでは? と心配していましたが、蓋を開ければ昨年とほぼ同等、1,000名以上の方々がご参加して下さいました。

毎年確実に年齢を重ね、当然のことながら体力・気力・知力が落ちていっているのでは? と自分でも懸念しているのですが、実際に今回のライブデモンストレーションでは本当に難しい複雑病変を次々と成功裏に治療することができました。正直のところ、我ながら「すごい!」と思いますし、「まだまだ進化の途中にある」と思いました。

以前より宣言していますが、「今日の手技が昨日の手技より進歩していなければ、その時はこのカテーテルを降ろす時だ」なのです。そんなつもりで行っています。

ご挨拶
ご挨拶
懇親会参加者の集合写真
懇親会参加者の集合写真

そして昨日19日木曜日の夜 羽田空港をたち、今はアメリカです これから新しい治療法/器具のトレーニングですよっ、まだまだ前に向かって前進です

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えっえっえっ そんな

久しぶりにイスラエルに来ました 最初にイスラエルに来たのは 1999年のことでした その時は ICI (Innovative Cardiovascular Intervention)という学会に招聘され、講演をしました。もっともその時は少し名前が違っていたように思います。この時は時間もあり、あの「死海」でも浮いた記憶があります。

そして、二回目は2004年であり、この時は JerusalemのHadassah Medical Centerから Tel Avivの会場にCTO症例のライブ治療をしました。それからあっという間に15年が経過したのですね。この間何回も招聘が来ましたが、時間の都合で断ってきましたが、今回ようやく訪問する機会がありました。かつての旧友 Chaim Lotan先生とも親しく話をすることができ、またこの学会には全米から著名な先生方も必ず参加されるので、今回はその中の数名の方々と色々な打ち合わせをしました。

その中の記念の Planary SessionここはA, B, Cという3つの会場を一つに合わせ、1,000名ぐらいが座っておられましたが、そこで突然 Lotan先生が僕の名前を呼び上げ、どこどどのようにして集められたのか僕の昔の写真がスライドで次々と映し出され、最後に ICI Mater Operator’s Awardというのを受賞したのです。全くの予想外であり、何の事前通告も無く、突然のことだったのです。

まさしく、「ゲゲゲ」という感じでした。このような時には皆の前で気の利いたことを喋らねばなりませんよねっ。当然です。

そこで即興で数分間皆の前でお話をしました。日頃思っていること、日本から革新的な気概が少なくなっていること、どうすれば良いか、日本独自の文化と外からの交流、それが大切であり、きっと日本は come backする そんな話をしました。まあそれでも上手にやり遂げました。我ながら褒めたいものです。

記念のスピーチ
記念のスピーチ
皆の前で
皆の前で