はじめに
今回はベトナム社会主義共和国(Socialist Republic of Viet Nam)の首都ハノイにあるベトナム心臓センター(Vietnam Heart Institute)に招かれた時の経験を記します。ベトナム心臓センターはBach Mai(バック・マイ)病院の中に存在するセクションです。この病院はベトナム厚生省直轄病院であり、100年の歴史を有するベトナムで一番重要な病院です。
最近の話なので皆さん方の記憶にも鮮明に存在すると思いますが、あの新型肺炎と呼ばれるSARS(Severe Acute Respiratory Syndrome:劇症急性呼吸器症候群)にベトナムが今年の春侵入された時に、多数の患者さんをこのBach Mai病院内に収容・隔離し、どの国よりも早くSARSを駆逐したことは、この病院の輝ける歴史にさらに一ページを加えたと言えるでしょう。
学会の詳細とベトナムのPCI
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PCI手技の様子 |
今回はベトナム全土より多数のInterventional Cardiologists(PCIを行う医師のことをこのように呼びます。日本語では何と呼べば良いでしょうか。循環器内科医というイメージよりももっと循環器外科医に近いイメージなのです)がBach Mai病院の講堂に集まり、同じ棟にある心カテ室と有線ケーブルで結び、実際の治療手技の中継(ライブデモンストレーション)が行われました。ライブデモンストレーションは会場と、術者である私との間で、その患者さんにとって最適な治療法はどうあるべきかについて、英語により活発に議論をしながら、実際の治療が行われました。

取材の様子 |
この模様はベトナム国営放送によりベトナム全土にニュースとして流れました。[右写真]
私たちは2003.年6月25日夕方成田発のハノイ行き直行便に乗り、同日夜10:00過ぎにホテルに入りました。26日は朝から夜まで、そして27日は午前中のみライブデモンストレーションが行われ、27日11:30pm発の成田行き直行便で帰国するという相変わらずの慌ただしいスケジュールでした。成田空港到着は定刻6:30am(28日)でしたが、飛行機は二時間遅れました。
ベトナムのPCIはまだ黎明期です。私がこのBach Mai病院を最初に訪れTRI(経橈骨動脈冠動脈インターベンション)をベトナムで初めて導入したのは1999年5月31日のことでした。[下写真]

Bach Mai病院にて |
当時のベトナムではPCIを行っている病院は全土でBach Mai病院のみ、という現状でした。そして国としての通算PCI症例数は50例程度でした。その後私の友人のDr. Tuan達の努力によりホー・チ・ミン(旧サイゴン)やフエ、ダナンなどでもPCIが行われるようになり、現在ではベトナム全土で年間500~1,000例ぐらいのPCIが行われるまでに成長しました。
現在Vietnam Heart Instituteにおいては年間300例ぐらいのPCIが行われている、ということです。
今回の会は学会というには規模が小さいものであり、研究会と称すべきものです。ベトナム最初の心臓病学会が来年4月に開催され、Dr. Tuanはその準備に入っておられるということです。来年も再び私はこの学会において講演および手技を行うためにベトナムを訪れることでしょう。
Tuan先生
Tuan先生[写真]はNguyen Quang Tuanというのが正式の名前です。Nguyenというのは昔、グエン・カオ・キー将軍がクーデターを起こしたことを覚えておられるでしょうか? ベトナム戦争が始まる前の話です。この日本語でグエンと称されるのがNguyenなのです。ベトナム語は何でも8声ある言葉であり、中国語の4声と比較しても格段に発音が難しい言語だということです。Nguyenの最初のNという発音は日本人には聞き取れず、従ってグエンという日本語表記になります。この点は欧米の人たちにとっても同様のようであり、彼らはニューエンと発音します。
ベトナムの名前の付け方は、最初にいわゆるFamily Nameつぎに父親のFirst Name、そして最後に本人のFirst Nameと並びます。ちなみに私の場合にはベトナム風に名前をつければ、齋藤・晃・滋ということになります。ベトナムにおいてはNguyenというFamily Nameは日本における鈴木や佐藤のように数多くあるFamily Nameなのです。Tuan先生は1980年にベトナム一番の名門校であるHanoi Medical Universityを400人の同級生中、主席で卒業されました。父親もおじいさんも医者の一家であり、ベトナムの中でも名門の家の出だったそうです。しかし、彼の自宅はベトナム戦争の時に米軍ロケット弾による直撃を受け、完全に破壊されたということです。ベトナムには通常2年間の義務兵役があり、彼も卒業後兵役につきました。彼は、当然なり得る医務官でなく、通常の一兵卒を志願しました。ベトナムは、ベトナム戦争が終結した後、国境を接する中国と10年近くの間、国境紛争(中越戦争)を行っていました。彼は、自ら志願してその最前線に赴き、しかも自ら志願して通常の二年間の兵役義務のみならず、四年間もその最前線で中国兵と相対峙したそうです。
その理由を彼に聞いたとき、彼は「自らの出身が名門の出であったからこそ、そのようにすることが自分の義務と思った」、と私に答えました。
幸い、彼は中国兵と実際の戦闘に陥ることなく四年間の兵役を務めあげたということです。四年間の最後の頃には相対峙していた中国兵とも友人になり、互いに言葉をかけ合う仲になったそうです。
彼はこの兵役を務め上げた後、フランスに四年間留学し、それから再びVietnam Heart Instituteに戻り、ベトナムにおけるPCIを立ち上げました。私が彼と初めてあったのは北京の学会においてでした。それは1998年のことでした。その時から彼の真摯な人柄に惹かれ友人となりました。彼は流暢なフランス語を話すことはできましたが、英語はほとんど話すことができませんでした。しかし、この5年間の間に彼はまたたくまに流暢な英語を話すことができるようになりました。何とすばらしい才能でしょう。
ハノイという街
ハノイはベトナム社会主義共和国の首都としての威厳があります。ベトナムは、その名前の通り、今は数少なくなった社会主義国家であり、ベトナム共産党の一党独裁体制が敷かれています。4年前に初めてハノイを訪れた時には、町中で自転車に乗って通行している女性は皆、ベトナム伝統衣装であるアオザイを着ていました。ハノイはフランス統治が長かったため、町中にはフランスの雰囲気が漂い、とても美しい街です。紅河のデルタ地帯に位置する街で、街の中にはさまざまな池や湖があります。そのうちの一つはかつて中国がハノイに攻め込んだ時に龍がおりたって中国軍を撃退した、という伝説が残る美しい湖です。
紅河は別名、荒れ河とも呼ばれます。その源は国境を越えて中国に発します。しばしば雨期には氾濫をおこし、このためハノイ旧市街は堤防で完全に囲われています。氾濫は大災害を起こしますが、その一方で土地を肥沃にし、ハノイ一帯はアジアでも有数の稲作地帯です。
ベトナムも他の東南アジアの国々同様に、中国の文化的歴史的影響を強く受けています。従ってベトナム料理は基本的には中華料理の変形のように思えます。ただ、中国料理よりも油分が少なく日本人にとってはもっと食べやすいおいしい料理です。

ハノイの街 |
現在のハノイには町中にバイクが溢れ[右写真]、そのバイクを乗っている女性の誰一人としてアオザイを着てはいません。街は活気に溢れ、しゃれたフランス風のカフェがたくさんあり、またインターネット・カフェすら存在します。ハノイにある有名ホテルの一つにシェラトン・ホテルがあります。もちろんシェラトン・ホテルですので完全なアメリカ資本のホテルです。そこで興味ある話を聞きました。このホテルの外壁一部は古いレンガ造りです。これはベトナム戦争当時の捕虜収容所だったのです。北爆(当時、アメリカ軍は北ベトナムに対してB52を用いて激しい爆撃を加えました。この爆撃を北爆と呼びました)の最中にベトナム正規軍により撃墜され捕虜となったアメリカ兵が主に収容されていました。当時この捕虜収容所に収容され、その後解放されてアメリカに戻っていたアメリカ人が何と20年後にこのシェラトン・ホテルの支配人として再びハノイに戻ってきたのです。この話をベトナムの人から聞いたときに、私はものすごい衝撃を受けました。ベトナムの人々、そしてアメリカの人々は何と柔軟な考え方を持っているのかと。はたして我々日本人は、このように過去のわだかまりを超えて新たな未来に立ち向かう態度が取れるでしょうか? これもアメリカ政府がベトナム政府に対して過去を国家としてきちんと精算したからこそ可能なのだと思います。どこかの国の政治家のように未だに過去をきちんと精算せず、過去の植民地支配を美化し続けていては侵略されていた人々の痛みはいつまでたっても消えず、次の世代の人々にいまわしき過去を引きずることとなるのではないでしょうか。
ODAとJICA
ODAという言葉をご存じでしょうか? 私はこの言葉はOversea Development Aid(海外開発協力)だとつい数年前まで思いこんでいました。しかし、本当はOfficial Development Assistance(政府開発援助)のことです。これは何も日本国政府に限った話ではなく、どの先進国でも行っている開発途上国に対する資金援助です。かつての日本も諸外国からのODAのお陰で先進国の仲間入りすることができました。これまで日本国政府はアジア諸国を中心として世界中の開発途上国に対して多額のODAを行ってきました。それはもちろんベトナムに対しても当てはまります。日本からのODAを用いてベトナムの様々な社会資本が充実してきました。
ベトナムでSARSを早期に駆逐した話は有名です。その陰にはWHO(World Health Organization: 世界保健機関)の強力な指導がありました。そして、WHOの下で実際に指導に当たられたのが、ODAの一環としてJICA(Japan International Cooperation Agency: 国際協力事業団)を通してBach Mai病院に派遣されている数名の医師・看護師の方々でした。今回、在ハノイ日本国大使館付きの医師の方とともにこれらの方々とお話する機会がありました。それこそ身を挺し、現地に住み込み、その国の保健衛生上の発展に尽くされている姿には頭の下がる思いです。また、それらの方々とともに日本国のために蔭で尽くされている医務官の方にもねぎらいの言葉をかけさせて頂きたいと思います。
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