はじめに
この前の北京訪問より11日に帰国し、今度は2003年10月13日に成田空港から出国し、パリ経由でセルビアを訪問してきました。パリ、シャルル・ドゴール空港よりJAT(ユーゴスラビア航空Yugoslav Airline)に乗り換えてセルビア第一の都市、ベオグラードに入りました。もともとパリでの乗り継ぎ時間は2時間足らずでしたが、成田からの飛行機が小一時間遅れた上、空港での乗り継ぎもスムーズではなく、慌ただしくBoeing737-300に乗り込みました。パリまでの飛行機はほぼ満席でしたが、ベオグラードまでの飛行機の座席はがらがらでした。パリからベオグラードまでは空路約2時間。途中にはヨーロッパ・アルプスがあり、その真上を飛行機は通過しますが壮大な景色です[写真右上]。ちなみに何故、JATと呼称されるのでしょうか? ユーゴスラビアは英語表記ではYugoslaviaですが、セルビア語表記では、YではなくJなのです。JATとはJugoslovenski Aerotransportというセルビア語で表したユーゴスラビア航空の頭文字です。また、この故にアルファベット二文字を用いた国際的な航空会社省略名はJUとなります。従って僕はJU243便を用いてパリからベオグラードに入ったことになります。もっとも、このユーゴスラビア航空は、今年の8月15日に社名を正式にJAT Airlineと変更しました。そして、7年間途絶えていたニューヨーク直行便を、ウズベキスタン(Uzbekistan)航空との共同運航便により9月14日より毎週2便、木曜日、日曜日に再開しました。セルビアからの行きも帰りも飛行中は操縦席が開け放たれていました[写真右下]。このテロの多い時代に考えられない、と思いましたが、それほどセルビアは安全だと宣言しているのかも知れません。
ユーゴスラビアというのは、南スラブ族(セルビア人、クロアチア人、スロベニア人)の国、という意味だそうですが、1918年にはじめて王国として統一されました。そして、1929年にユーゴスラビア王国として、国名が制定され、第二次世界大戦の時に、抵抗運動を組織したチトー(後のユーゴスラビア大統領)によって、1945年にユーゴスラビア連邦人民共和国(1963年にユーゴスラビア社会主義連邦共和国に変更)として民族宗教の違いを超えて出発しました。このようにユーゴスラビアはもともと、スロベニア、クロアチア、ボスニア、ヘルツェコビナ、マケドニア、セルビア、モンテネグロという国の連合体として共和国を形成していました。しかしながら、1980年代初めにチトー大統領が亡くなり、またその後の東ヨーロッパ各国での社会主義体制崩壊を契機に、1991年にもっとも豊かであったスロベニアがユーゴスラビアから独立しました。この後、次々とクロアチア、マケドニア、そしてボスニア・ヘルツェコビナが独立しました。そして、現在残されたセルビアとモンテネグロは緩やかな連合国家を形成し、2002年にセルビア・モンテネグロ(Serbia and Montenegro)として連合国家が発足しました[右地図]。かつてユーゴスラビアの首都であったベオグラードは、多分モンテネグロに気遣ってのことだと思いますが、首都ではありません。いや、憲法上の首都というものは存在しないのだそうです。
このようにここバルカン半島の火薬庫とも呼ばれるこの地域では、ユーゴスラビア崩壊後に宗教や民族間での激しい対立・内戦がおこり、特にボスニア・ヘルツェコビナではサラエボを中心に、隣近所の人々が互いに殺し合う激しい内戦が続きました。この結果、何と20万人という人々の命が失われました。セイビア(Savior = 救世主)という1999年製作のアメリカ映画があります。この映画は、ナスターシャ・キンスキーも出演している映画ですが、この間の悲劇を鮮明に描き出しています。僕はこの映画をケーブル・テレビで深夜遅くに見て、非常な衝撃を受けました。また2001年に製作され最近公開されたジーン・ハックマン主演のエネミー・ライン(Behind Enemy Lines)という映画もこの頃の話ですが、セルビアの人々のことを一方的に悪く描いているため、セルビアのお医者さん達は、「ひどい」と言っておられました。
セルビアでもかつてミロシェビッチが大統領であった時代にコソボ地域で激しい内戦が続き、このためNATO(North Atlantic Treaty Organization = 北大西洋条約機構)軍による激しい空爆がベオグラードはじめ全域で数十日間に渡って続きました。

ベオグラードの街中 |
セルビアではセルビア語を用います。セルビア語の起源は同じスラブ民族であるロシアのロシア語と似ていて、用いる文字はロシア・アルファベットとほとんど同じだそうです。従って、セルビアの方はある程度ロシア語会話を理解できるそうです。このようにセルビアはロシアと同じルーツを有するそうですが、文化的にはギリシャの影響が大きく、従って宗教もギリシャ正教が強く、ベオグラードの街中にはギリシャ正教の教会が大きくそびえています[写真下]。セルビアは色々な国々に囲まれているため、これ以外にも、ドイツ、ハンガリー、地中海諸国、トルコなどの影響を文化的に強く受けています。現在、セルビア・モンテネグロの総人口は750万人です。ユーゴスラビアの時には、全体で2,000万人以上の人口だったそうです。セルビアの人々の死因の50%は心臓疾患だそうです。そして25%が悪性腫瘍、10%が事故死だそうです。心臓疾患が死因として多いのは、高い喫煙率、脂肪が多いことや肉食中心の食生活に起因しているそうです。このため、Goran先生はユーゴ国営テレビに度々出演してこれらの生活習慣改善を訴えているそうですが、何の効果も無い、ということでした。伝統的なセルビア料理は、ドイツ料理のようでもあり、またロシア料理のようでもあります。何れにしても肉食中心です。魚としては鱒が名物だそうです。そういえばここベオグラードでも多くのMcDonaldがあります。
セルビアでの伝統的な生活様式は、軽い朝食の後、7:30am頃から仕事を始め、15:00には仕事を全て終了し、それから自宅に帰って非常に重い昼食を家族で食べます。その後は、皆で団欒し、遊び、20:30〜21:00頃から比較的軽い夕食を取る、というものだそうです。現在でも役所はこのスタイルでしかサービスを提供しないので、15:00を過ぎれば手続きも何も出来なくなってしまいます(ひょっとして日本でも一部の役所は今でもこうですかね)。しかし、若い人々の生活様式は変化しつつあり、16:30や17:00まで働く人々も増えてきているそうです。この場合には、昼食は軽く、19:00頃から摂る夕食は重くするそうです。それでも日本人のように5:00pmを過ぎても働く、ということは絶対に無いそうです。
ベオグラード


もと軍の施設 |
ベオグラードの横文字表記には二つあることに気づきます。一つはBeogradであり、もう一つがBelgradeです。実は前者がセルビア語での表記であり、後者が英語表記なのだそうです。Beogradの後半の"grad"という語感は何となく、インド訪問記で紹介しましたイスラム語の都市を現す"bad"と似ていますよね。ですから僕はてっきり、Beogradという名前はイスラム語を用いて名付けられた、と思っていました。しかし、Goran先生によれば、それは間違いであり、Beogradというのはセルビア語でBeo = 白い、Grad = 都市、であり、「白い都市」という意味です。昔は家々が白い石を用いて造られていたため、このような名前がつけられました。そして、Beogradはイスラムが15世紀に侵略してくる前の紀元1,000年頃にスラブ民族が入ってきて作られた都市であり、イスラム語由来の言葉ではない、ということでした。
ベオグラードはバルカン半島の中心に位置し、ドナウ川とサバ川という二つの大きな河が合流する戦略的にも非常に重要な場所に位置します[右地図]。ちなみに河は合流した後、ルーマニアなどを経て最終的に黒海に注ぎます。この河はヨーロッパ最大の水量を誇るもので、そのために時に氾濫することもあります。南東からはトルコ(オスマン・トルコ帝国)、北西からはドイツなどからいつも攻められてきたそうです。実際、ベオグラードはヨーロッパの中でもアテネ、ローマに次ぐ古さの都市なのですが、彼らに言わせればこれまでに100回も破壊されつくした、ということです。そしてその最後の破壊が1999年3月から始まった、アメリカ軍とNATO軍による78日間に渡る徹底したベオグラードおよびセルビア全土の空爆でした。この時、ベオグラードの主要なビルは米軍機による徹底的なピン・ポイント爆撃を受け、今もそれらのビルは破壊されたまま、無人のビルとして残っています。CCS(Clinical Center of Serbia)のすぐそばにも、そのようなビルが残っています[写真右下]。このビルは、軍の施設だったそうです。ピン・ポイントといってもこれらの爆撃により全土で1,000名の民間人の命がおとされた、ということです。
二つの河の合流部には昔から城壁[写真左下]が築かれ、その場所はセルビア語で「戦いの原、battle field」を意味するKalemedanからKalemedanの城壁と呼ばれています。現在は、見晴らしが良い格好のデートスポットになっています。Goran先生とMilan先生の案内で8:00pm頃に訪れた時も、若いカップルが何組も熱い抱擁をしていました。この場所に、ベオグラードを代表するセルビア料理レストラン(Kalemegdanska Terasa)があり、お二人に講演終了後、学会主催のディナーの前に連れて行って頂きました。料理はとてもおいしく、僕はペッパー・ステーキ[写真右下]をたのみました。300gぐらいはありそうなヒレ肉にペッパーとマスタードがかけられたものです。おいしいのですが、何しろ量が多くてとても食べ切れませんでした。なお、現在ベオグラード市内には50,000人の中国出身の人々が住んでいるのだそうです。このため、市内には中国料理のレストランもあるそうですが、僕が市内を見せて頂いた1時間ぐらいの間には、一人も東洋風の顔立ちの人に会いませんでしたし、中国料理の看板も見かけることができませんでした。ちなみに、Goran先生によれば一軒だけ、お寿司を食べられる店があるそうです。

城壁の前にて |
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赤のスタジアム |
ユーゴスラビアはサッカーでも有名です。ユーゴを代表する選手が日本のJリーグでもスターでありセルビア出身の英雄であるストイコビッチです。彼が活躍していたメインスタジアムは欧州でも最大級の54,000人収容のスタジアムです。外壁が赤く塗られているので「赤のスタジアム」と、呼ばれます[写真右]。このスタジアムの他に同じ規模のサッカー・スタジアムがもう一つあり、こちらは白で塗られているので「白のスタジアム」と、呼ばれるそうです。丁度、僕が訪れた2週間後にはあのヨーロッパ・チャンピオンというか世界最強のクラブ・チームであるレアル・マドリードの全メンバーが訪れて試合をするということでした。
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