Goran先生

Goran先生(右)と |
Goran先生[写真右]というのは実はFirst name、即ち僕の名前で言えば「齋藤 滋」の「滋」です。「齋藤」に相当するのが、Milasinovicです。サッカーのストイコビッチという名前からもご存じだと思いますが、ユーゴの人々はLast nameの後に「イッチ」というのがつきます。これは何かと言うと、「〜の息子」という意味です。ですから、Goran先生の例で言えば、「Milasinoの息子」という意味であり、そもそもの祖先のLast nameの息子、なのだそうです。まあ何と言うか、自分たちのルーツ、というものでしょうか。そうであれば、同じLast nameの人々は皆、同じ祖先の子孫か?というと、そんなことはなく、同じLast nameの人々も多いそうです。従って、同一のLast nameの間でも結婚は許されるそうです。
もっともGoran先生は米国留学経験があり、しかも現在息子さんはウィーンで医学部通学中、お医者さんである奥さんもこれに付き添ってウィーン滞在中、弟さんがニューヨークで理学博士をされている、という国際派なので、非常に流暢な英語を話されます。

CCS |
ちなみにGoran先生の普段の生活は、朝食を自宅で食べ、そのあと自分で自動車を運転して市内のアパートから病院の中のクリニック(CCS = Clinical Center of Serbia, University Institute for Cardiovascular Disease, Belgradeというのが正式名称です。)[写真右]に出勤し、7:30amから回診を行い、8:30am〜12:00まで毎日数例のペースメーカー植え込みを行い、それから回診と外来診察、あるいは学生講義を行い、3:00pm頃に軽く昼食を摂り、その後は研究を行い、4:30pm〜5:00pmに帰宅する、というものだそうです。もっとも、色々な共同研究の打ち合わせ、招待講演、あるいは学会発表などでヨーロッパの国々に出張することも多く、僕の訪れた前の週の木曜日にもBrusselsに行かれていた、ということでした。年に1、2回はNASPEに参加したり、共同研究打ち合わせを行ったりするために米国に行かれるそうですが、現在ではベオグラードとニューヨークの間には直行便が飛んでいるので、非常に便利だそうです。NATOによる空爆、また国連の経済制裁の続いていた間はいちいちミュンヘンなどに飛んでから飛行機を乗り継ぐ必要があったので大変だった、ということでした。
彼に聞きました。「社会主義政権の時代と、今とどちらが良かったですか?」、これに対しては「多くの一般の人々は、きっと社会主義政権の時代の方が良いと思っている。何故なら、年金はたくさん貰えて、医療費もタダで、おまけに犯罪も無かったし、皆が平等だったから。でも、高等教育を受けた人々にとっては今の方がはるかに良い。チャンスがあれば伸びることができるし、人間として成長していけるし、国全体が結局は豊かになるから。」というものでした。何れにしても、社会主義政権の時代というのは、将来に負債をどんどん積み増す、さながら「ネズミ講」のようなものであり、どっちみち破綻することは目に見えていたのだと思います。そして、その破綻を先延ばしすればする程、一般の人々が被る悲劇は大きくなったのだと思います。
先に記したように、Goran先生には米国留学の経験があり、また親戚も米国に住んでいて、アメリカの人々のことをとても愛しています。でも彼は、言います、「アメリカ人はとても好きだ、でも彼らは世界のことを何も知ろうとしない、世界全部がアメリカだと思っている。だからアメリカ政府は自分たちの正義をおしつけようとする。1999年にNATO軍が空爆を行ったのは、単にミロシェビッチ大統領追放が目的で、コソボ問題は単なる口実だった。丁度、イラクのフセイン大統領降ろしと全く同じ構図だ」。勿論、Goran先生はミロシェビッチ大統領追放には賛成されているのですが、あくもでも国内の問題は国民自身が解決すべきであり、大国の一方的な論理で解決される問題ではない、と主張されているのです。また一方で、「この時に、日本国政府は米国の主張に対して距離を置き、緒方国連難民高等弁務官や明石国連大使と共にユーゴの問題に対して冷静に対処し、これまでに問題解決のために多大な財政的、人的援助をしてきた。これに対してセルビアの国民は一般の人々も含めて非常に感謝している。そして、日本に対して強い好感を持っている」とも、私に強い言葉で仰りました。
Goran先生はまだ41歳、これからのセルビアを背負っていく有望な医師だと思います。
セルビア・モンテネグロのPCI
セルビアに存在する病院は全て国立病院だそうです。私立の高級医療機関も無くはないそうですが、病院ではなく各種の医療機器を揃えた診療所に過ぎないそうです。医療は全て公的健康保険によって賄われますが、ご多分に漏れず膨大な赤字だそうです。大学医学部は全部で3つあります。最大のものがGoran先生の所属する大学(ベオグラード大学)であり、毎年400人の医学部卒業生が出ます。もう一つが北部にある第二の都市、Navisadの医学部で卒業生は300人、そしてもう一つの医学部が卒業生100人だそうです。しかし、現在セルビア政府は財政赤字のために、医学部卒業生が専門医となることを推奨していません。その結果、医師免許を持つ多くの医師が失業状態にある、ということです。Goran先生の病院では何と、毎年700症例ものペースメーカー植え込みが行われ、その中の25例ぐらいが、心不全に対する最新の治療法の一つである両室ペーシングだそうです。このような多数の症例数を誇る病院であるため、多くの米国ペースメーカー会社がGoran先生達と共同研究をしています。ちなみに米国製のペースメーカーでVVI型が1,500US$、DDD-Rでも2,500US$と日本国内での価格よりも相当に安いそうです(もっともここにはトリックがあり、日本などで一般的に用いられているペースメーカーよりも型式が古く、しかも政府が一括大量購入して安く買うそうです。ちなみに、日本で現在一般的に用いられている型式のペースメーカーだと、患者さんの個人負担となり、また価格も大幅に上昇するそうです)。これは何もペースメーカーに限った話でなく、心臓移植(心臓移植も多数行われているそうです)に要する費用も日本人が米国に行って受ける時に必要な費用100万US$と比べて大幅に少ない1万US$程度だそうです。これは勿論、所得の差にもよるのでしょうが、不思議なのはDES(Drug Eluting Stent)の代表であるCypherステントの価格が3,000US$と、アジア諸国の価格と変わらない、という点です。多分Cypherの日本国内販売価は3,000〜4,000US$になると思われますのでペースメーカーのような価格差は無い、ということになりそうです。
セルビアでは伝統的にPCIよりもCABGの方が強かったようです。旧ユーゴスラビアは社会主義政権でしたが、ワルシャワ条約機構に属さず、非同盟自主独立路線を歩んでいました。このため、ワルシャワ条約機構に属していたソビエト連邦、ハンガリー、チェコスロバキアなどの国々と異なり、以前より西側諸国と比較的自由に交流ができていたそうです。このため、多くの優秀な人々が米国などの西側諸国に留学し、先進的な技術を学んできました。そのため、この国の教育水準は他のバルカン諸国と比較しても平均的にとても高いそうです。この流れの中で多くの医師が主として米国に留学して、先進医療技術を身につけて帰国しました。従って、心臓外科医の技術も非常に優秀であり、今回僕がPCI手技を行ったDedinje心臓血管研究所病院(Dedinje Cardiovascular Institute)でも数多くの開心術が行われてきました。この病院は、1973年に設立された循環器疾患治療専門のベッド数219床を有する国立病院です(ということは確か日本の国立循環器病センター設立よりもはるかに古い、ということになりますね)。ちなみに、Dedinjeというのはこの病院が建てられている丘の名前です。従って、病院のベランダからはベオグラード旧市街が全て見渡せます[写真右]。

旧市街を背景に |
1977年に最初の開心術が行われた、ということです。そして、これまでに何と累計23,000例の開心術を行ってきました。ちなみに昨年2002年には1,544例の開心術、1,501例の大血管・末梢血管手術、610例のPCIそして148例のペースメーカー植え込みがこの病院で行われました。ユーゴスラビア最大の開心術症例数を誇る病院ですが、近年の開心術症例数は最盛期1996年の年間2,176例から徐々に減少しているそうですが、病院長のDr. Bosko P. Djukanovic先生(もちろん心臓外科医)によれば、その最大の原因はやはりPCIが盛んになってきているからだそうです。ちなみにこの病院でPCIは1996年より開始され、2001年までは年間200から300例で推移していたのが、昨年は610例と飛躍的に増加したそうです。

Milan先生(左)、Goran先生(右)たちと |
一方、Goran先生やMilan先生の所属するCCS(Clinical Center of Serbia)は大学付属病院であり、全科を有するユーゴスラビア最大の病院です。この病院では循環器科の方が心臓外科よりも伝統的に強く、年間700例のPCI、700例のペースメーカー植え込み、そして1,000例未満の開心術が行われているそうです。この病院でPCIを行っているのがMilan先生です[写真右]。ちなみに、Milan先生に言わせれば、PCI年間症例数はここ何年も年間700例前後で上下しているそうですが、症例数を規定する最大の要因はディバイスの供給状況、要するに経済状況なのだそうです。何と、CCSには発症後48時間以内の急性心筋梗塞が年間2,500例も緊急入院するそうです。従って、まだまだ無限の患者数があるとのことです。ちなみに今回の学会で僕やSong先生と同様に重要な外国Facultyの一人であったAntonio Colombo先生は、この症例数を聞いて目を丸くされていました。この症例数は臨床研究者としての僕にとっても非常に魅力的に写ります。財政的な裏付け(企業よりの研究援助)があれば、すぐにでも急性心筋梗塞治療に関する諸問題を解決するような臨床研究が可能だと思います。それこそNew England Journal of Medicineに掲載されるような世界第一級の臨床研究がたくさん行えると思います。うーん、セルビアに数年間移り住もうかな?
ちなみにColombo先生はこのセルビアのことをとても愛しておられ、もう何年も前からこの国と関わってこられた、ということです。従って、現在セルビアの第一線で活躍しておられるPCI術者の何人もミラノで研修をされてきました。世界地図を見れば一目瞭然ですが、イタリアとセルビア・モンテネグロはアドリア海を挟んだ二つの国であり、距離的にはとても近いので今後はイタリアとこの国の関係はどんどん深まりそうです。
現在、セルビア・モンテネグロ全体ではPCI症例数は年間1,500から2,000例ぐらいだそうです。従ってほとんどの症例がCCSとDedinjeで行われている、ということになります。
田邊特命全権大使への謁見

藤田良治 医務官(左)と

田邊隆一 大使(右)と |
今回、藤田良治 在セルビア・モンテネグロ日本国大使館付け医務官[写真右上]のご手配により、在セルビア・モンテネグロ日本国大使館特命全権大使 田邊隆一 大使[写真右下]と会見することができました。大使にはお忙しい時間を割いて頂き、30分以上に渡ってセルビア・モンテネグロに対する考えと熱意をお聞かせ頂きました。大使は昭和45年外務省に入省後これまでにドイツ、オーストラリア、サウジアラビア、インド、インドネシアなどの大使館、領事館にて任官された後、平成11年から15年にわたって外務省より東京都外務長に出向され、石原都知事の外交面での右腕としてご活躍されてきました。東京都外務長の間には、アジアの主要都市市長をまとめあげ、アジア都市ネットワークを発足されることにご尽力されました。ユーゴ紛争終了後日本は多くの無償資金協力を展開し、政府のみならず一般市民より大変感謝されています。たとえば、日本からベオグラード市に市民の足として93台のバスを援助し、これには日の丸がついています。また、セルビアの田舎の小学校には窓ガラスもないところがあり、これらの小学校の修復を援助し、寒い外気にさらされることなく勉強をすることができるようになりました。そのような一般の人々に直接還元される援助を続けておられる、ということです。また、インドネシアに任官されておられる時に行われた救急病院の整備もこの国で是非行いたい、と強く仰っていました。インドネシアから日本に帰国された後に、インドネシアで大きな列車事故があり、多数の負傷者が出ましたが、その多くの被災者が大使の整備された救急病院に運び込まれ助かり、そのことが現地の新聞に大きく報道されました。これらのことが翻って、どれだけ日本国の国益に寄与してきたかは計り知れません。
もちろん、熱意のみではなく、現状を冷静に分析されておられました。本年3月にもセルビアの首相がマフィアと思われる旧体制派の人々に暗殺されました。未だに実行犯の一部は捕まっておりません。そのように、もはや戦争は起きることはありませんが、まだ不安定な面があります。また、輸入が増加して、対外累積赤字は増大する一方であり、輸出するものが少ないのだそうです。そこで、人材の育成や輸出の促進、たとえば、もともと豊かな農作物資源などに対して、日本から技術移転して、それを輸出できるようにする、そのような援助も必要ではないか、とも強く語られました。そして、何れにしてもこの国は経済改革と民主化という困難な挑戦を乗り切っていく必要があり、今後数年から5年間が大変重要な時期であり、民主的に、そして経済的に自立できるように、かつて日本が戦後の荒廃から立ち上がった、その経験を生かすような援助をしたい、とも語られました。
僕は、日本という国を代表する大使の、このような熱意とセルビアに対する強い思い、そして日本に対する愛国心に強く感動しました。
また、藤田医務官は医療の面でもっともっとセルビアと日本との関係が深まることを期待され、そのためにも徳洲会が、今後ともこの国に対して人的あるいは病院への支援をされることを願っておられました。これらのことについては僕も大賛成ですし、徳田虎雄理事長もきってご賛同されることと思います。
大使の強い愛国心をお話の中から感じました。それとともに、ふと危機感に襲われました。もしも、僕がこの学会に参加していなかったならばどうなっていただろう。学会にはアジアから唯一韓国のSong先生のみが参加されていたことになります。そうなると、きっと日本という国の存在感が低下していたに違いありません。このことを後でGoran先生とMilan先生に "Dr. Song from South Korea was in the meeting. If I was not here, I am afraid the presence of Japan might be reduced." と話したところ、二人とも "Yes!" と答えられました。僕は自分が参加したことに、日本国民としての別の意義も見いだすことができました。
もっとも僕は日本という国を愛する愛国者ですが、国粋主義者ではなく平和主義者です。韓国という国も人々もとても尊敬し、好きです。ベオグラード空港を出発する時には、四人で最後の乾杯を行い、再会を誓いました[写真右]。
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