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 中国訪問記-IV
はじめに
 今回は、またもや中国・北京の訪問記です。今回は2003年12月16日に成田空港を出発し、20日に帰国しました。私は中国入国の一年間通用のビザを有していますが、幸いなことに本年の9月より日本人が中国入国する際にはそれが1 or 2週間であればビザは不要となりました。

 12月の北京といえば、私にはとても忘れがたい思い出があります。それは1990の12月でした。以前の中国訪問記でも記載したかも知れませんが、僕自身の歴史の中において外国で初めてPCIを行うために一人で北京空港に降り立ったものです。当時の北京はとても寒く、気温はマイナス10度ぐらいでした。何時も北京空港に降り立つと、この時のとても辛かった、しかし何にせよそれが今の自分を造った、そのようなことを思い起こします。ちょうどこれは故郷に戻った時と同じ想い、だと思います。そうです、敢えて私は宣言できます。北京は私にとって生まれ育った東京と並んでもう一つの故郷に他なりません。

 などとしんみりしたところで、さて四つの京は何処にあるでしょう。東京は「東の京」、北京は「北の京」です。では「南の京」は? 勿論それは日本人および中国人にとって忘れがたい南京です。では「西の京」は何処でしょう? それはかつて長安と呼ばれ、中国4,000年の歴史の中で3,000年間首都が存在した西安のことです。ちなみに中国語では「京」のことを"Jing" (ジン)と発音します。この"J"は実際には"ジ"ではなく、息を吸い込みながら発音する"チ"です。ですから中国の人は一般的に東京のことを"トンジン"と呼びます。ちなみに京都のことは"ジントゥ"と呼びます。

 今年は日本も例年になく暖かい冬ですが、北京も同様でありました。本来であれば、氷点下であるべき気温が今年はプラス気温でした。

朝陽病院
 12月17日水曜日には首都医科大学付属朝陽紅十字病院を訪れてPCIを行いました。朝陽は北京市最大の区である朝陽区最大の病院です。この朝陽区は北京市最大の区であり、2008年に開催される北京オリンピック会場のほとんどが建設される場所であり、また現在バブル気味の北京市の中でももっとも土地の価格が高騰している地域です。また、この地域は東京でいえば赤坂・麻布という感じであり、各国の大使館が全て集まっている地域です。

 朝陽というのはまさに朝の太陽という意味であり、皇帝が住まわれていた紫禁城から見れば毎朝この朝陽区の方向から朝日が昇ります。朝陽は中国語で"チャオヤン" (ChaoYang)と発音します。紅十字病院というのは日本語では赤十字病院ですので日本語に直せば朝陽赤十字病院ということになります。

 中国訪問記Iで紹介させて頂いたHu (胡 大一)先生は北京医科大学を辞められた後、この朝陽紅十字病院循環器科の科長になられました。北京医科大学(現在では北京大学に統合され、北京大学医学部となっている)は国立の大学ですが、朝陽紅十字病院が所属する首都医科大学というのは北京市市立大学です。彼は、この大学の教授として循環器を主導されることになりました。それは1993年頃のことだったと思います。

朝陽病院の症例
朝陽病院の症例
 彼は一人で朝陽紅十字病院に移ったものの、当時この病院の循環器科はほとんど無きに等しい状態でした。そこで、彼は私に若い医師を指導し、PCIを立ち上げるように依頼して来られました。もともと人口が多い朝陽区ですので、いったんPCIが立ち上がればその後は順調に症例数をのばしてきました。また、彼は彼本来の得意分野である不整脈治療(高周波カテーテル・アブレーション)も積極的に行い、一時期は年間500例以上のカテーテル・アブレーションを行うまでにもなりました。

 私は、自分がPCIを教授する代わりに、当院の私の部下達にカテーテル・アブレーションを指導して頂くように依頼しました。そして、1995年に当時私の第一の部下であった細川丈志先生(現在、山近記念病院循環器科)を一ヶ月間この朝陽病院に研修のために送り込みました。そして、田中慎司先生、および当時私の部下であった数名の医師を続けざまに研修のために送り込みました。このお陰で当院の不整脈治療は立ち上がることになりました。

 その後、朝陽病院のPCIは中国訪問記Iでも紹介させて頂いたJia先生がチーフとして行われるようになり、現在は王(Wang)先生がチーフとしておられます。この日朝陽病院では私のために13例を用意して待っておられました[右上写真]。

A hard day in阜外病院
 翌18日には阜外病院を訪れました。この病院は中国訪問記でも紹介させて頂いた中国最大の心臓病専門病院です。当日訪れるまでは予想だにしていなかったのですが、Gao先生達は私のために何と35例の症例を用意して待たれていました。

 中国ではほとんどの場合、Ad-hoc PCI (診断カテーテルを行い、有意病変があればそのまま引き続いてPCIを行う)なのですが、困難と思われる症例では診断カテーテルとは別にPCIの予定が組まれます。この35例の中にはそのような症例がたくさん含まれていました。

 8:00am前にカテ室を訪れた時には既に第一症例の造影が始まっていました。すぐにPCIを行うように要請され、その後はほとんど絶えることなく延々と8:00pm近くまで手技が行われました。その間、昼食もマクドナルドのFillet-O-Fishを食いつまんだのみでした。スケジュールとして最後の症例は40歳代の男性であり、少し歩行しても狭心症がおこるような患者さんでした。病変は二枝病変であり、大きな右冠動脈の#2に95%狭窄があり、さらに左冠動脈前下行枝#7は慢性完全閉塞でした。当然今回の強い狭心症状は右冠動脈病変によるものであり、かつての阜外病院のPCI戦略に従えば、まずこの右冠動脈に対してステントを植え込み、それから左冠動脈前下行枝のCTOに対してPCIを試みる。そして、CTOのPCIが不成功であっても症状は取れるので、それで良しとする、というものであった筈でした。しかし、今回のGao先生の方針は異なりました。Gao先生は僕に、左冠動脈前下行枝のCTOに対してまずPCIを行い、それに不成功であればCABGに患者さんを回す、というものでした。

 こうなると私も俄然挑戦を受ける気になりました。CTO病変の入り口はとても固くて、Conquestを用いてもガイドワイヤーがびくとも進みませんでした。そこで、持参のMagic-15を用いたところ、ゆっくりとCTOの中に進み始め、最終的にFalse lumenに入りました。そこで、このガイドワイヤーを参照しながらConquest-Proで真腔を狙ったところ、上手い具合に真腔を捉えることができました。まあ、それからがまたバルーンを通すのが大変でしたが最終的にステントを植え込むことができました。そして、安心して右冠動脈の治療も終了しました。全体で1時間以上かかりましたが、「やり遂げた」という充足感がありました。それと共に、「さあ、これで今日のhard dayもいよいよ終わりだ、お腹空いたし夕食だ!」と、思っていたところ、"Dr. Saito, we have one patient with unstable angina in CCU. In another hospital, she received the attempts of catheterization from both groins. However, catheters did not go up to the Aorta. If you would accept, could you do it from the radial approach?" などと言われてしまいました。

 日本のRadialist、世界のRadialistを自他共に認める私としては、この最後の"from the radial artery"という決め言葉を使われれば、断れる訳がありません。そこで、その50歳代の女性患者さんに対して、いつも湘南鎌倉総合病院で行っているようなとても素早いカテーテルを行いました。そうしたところ、この患者さんは右冠動脈#2の完全閉塞を呈していました。これによる不安定狭心症だったのです。ガイドワイヤーは容易に通過し、ステントを植え込んで終わり。患者さんはカテ室に入ってから20分後にはもう症状が無くなり、もう歩くこともできるようになりました。

 本当にそんなに遅くまでPCIをやっているのか?と、疑問に思われる方もおられると思います。この写真は、僕かこの日にとった写真[左下写真]です。注目すべきは壁にかかっている時計です。そうです、既に夜の7:00なのです。

PCIの様子
阜外病院でのPCI
阜外病院の皆さん
阜外病院の皆さん

 阜外病院にPCIで訪れる時は、最近いつもこんな調子です。国立病院であり、社会主義国であるにもかかわらず職員も皆、何の文句も言わずに遅くまで付き合っていてくれます[右上写真]。本当に感謝します。阜外病院の本年のPCI症例数はこの日1,900例に到達しました。例のSARSが無ければもっとたくさんの症例数になったことでしょう。

北京友誼病院
 19日には北京友誼病院を訪れてPCIを行いました。この病院は中国訪問記Iにおいて詳しく紹介していますので、今回ははぶきます。

北京でのPCI価格
 今回、私にとっては重大な詳細情報を入手しました。それは、PCIを行った時に、患者さんが病院に対して支払う価格です。中国国内の健康保険制度は大きく変わりつつありますので、これはあくまでも2003年12月の時点での話だと思います。

 薬物溶出性ステントであるCypherは36,250元、TAXUSは18,637.5元でした。そして、bare metal stentであるBx-Velocityが18,320元、Express-2が18,637.5元、Zetaは16,380元、Driverは19,740元でした。これに対して純中国製のMircoport stentは9,924元、Vascore stentは10,537.5元でした。ちなみにバルーンはおおむね7,000~8,000元です。現在、中国人民元1元は大体日本円にして13円ですので、やはりCypherは中国でも相当に高価ということになります。何れにしましても日本国内の保険償還価格よりは安いものの、所得水準を考慮すればPCIを行うためには相当な自己負担を伴う、ということになります。

 ちなみにガイディング・カテーテルは1,800元程度、PCI用のガイドワイヤーも1,800元程度、そしてシースは330元程度であり、これらは日本国内保険償還価格よりも相当に安価ということになります。

中国の人々とのデリケートな議論
 私はこれまで10年間以上に渡って中国全土でPCIを行い、また指導してきました。そのことは中国の先生方は誰しもご存じであり、私を何時でも受け入れて下さります。しかしながら、こんな私に対してでも時に患者さんは治療を拒否されます。特に第二次大戦中に旧日本軍により自身が、あるいは家族がひどい目にあわされた世代の方々の中には、「日本人に治療されるぐらいならば死んだ方がましだ。絶対に治療は受けたくない。」といって、拒否される方もおられます。今回も、朝陽病院で一例そのような患者さんがおられました。しかし、この時には看護婦さんはじめ全ての先生方が説得されて、結局患者さんは私に治療されることを受諾され、無事に治療することができました。

 夕食の時に、このようなことから日中間の過去に関する、非常に微妙な問題について議論することになりました。当然これらの話は、話題にすることは危険ですのでお互いに避けようとする話ですが、この日は皆がお互いに根本的に信じ合っていると信じられたためか、すんなりとこの話題に移行しました。古い世代の中国の方々は、今でも日本あるいは日本人に対して、受け入れがたい感情を持たれています。それのみか、若い世代の方々もある種の悪い感情を日本と日本人に対して持たれています。そして小学校や中学校では、「日本では中国人のことを侮辱するような教育を義務教育の中で行っている。」と、皆に教育されるそうです。

 しかし、これは日本ではこのような教育は行われていない、と思います。そうではなく、日本の教育の中では過去に日本がアジアの国々対して行った行為を無視するような教育が行われています。この結果が、私のように過去の日本の行為を知らない人々がたくさん出来ることになってしまったのです。

 しかしながら、私自身がこの過去の歴史から逃れることができない、ということを何回か思い知ることがありました。その一つは既に韓国訪問記Iで紹介させて頂いたエピソードであり、また上に述べたような中国国内での経験です。さらには、旧日本軍とは無関係と一見思われるヨーロッパでも同様の経験がありました。

 それは2001年10月に開催されたKiemeneij先生主催のライブデモンストレーションでのことでした。Kiemeneij先生は私に右冠動脈のCTO症例を用意されました。この患者さんは84歳の男性の方でした。彼は、ライブデモンストレーションで日本人の術者によってPCIが行われるということを患者さんに説明されました。その説明の時に、Kiemeneij先生は患者さんのオランダ語発音にインドネシア訛りがあるように感じられました。というのもKiemeneij先生ご自身は旧オランダ領であったインドネシアで生まれ、子供の時はインドネシアに住まれたことがあったからです。そこで患者さんにその旨を問いただすと、その患者さんは何と、「私はオランダ軍兵士として太平洋戦争の時に日本軍の捕虜となり、泰緬鉄道建設に従事させられた。」と答えられた、ということです。泰緬鉄道というには映画「戦場にかける橋」でも描かれた有名な歴史的事実ですが、日本軍がタイとビルマ(現在のミャンマー)の間に敷設した鉄道ですが、その敷設には連合国軍捕虜やアジアの人々を強制的にあたられました。この結果、連合国軍捕虜1万3千人、アジア人労働者数万人が死亡した、という悲惨な事実です。そこでKiemeneij先生は、この患者さんに対して、「それでも日本人に治療されることはOKですか?」と、聞かれましたが、患者さんは、「それは過去の日本人が行ったことであり、その日本人の医師が優れた技術で私を治療するならば、勿論OKだ。」と、答えられたということです。私はこの事実を、実際に治療を行う直前に聞かされました。これはものすごいストレスを私に与えました。幸にも、TRIによりこのCTOを治療することができました。

 結局のところ、戦後に生まれた私ですら、戦前に行われた旧日本軍による歴史的事実から逃れることはできません。この事実に対して、私自身が出来ることは真摯にその事実を受け止め、そしてその上で一生懸命患者さんを治療することでしょう。

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