3回目の日立訪問

10月03日は12:45発の品川発常磐線特急に乗り、茨城県日立に向かいました。日立総合病院での院内ワークショップに参加するためです。PCIの最中

実は2012年12月、未だ東日本大震災の傷跡が痛々しく残っていた日立総合病院に初めて訪問させて頂き、一例ライブで治療させて頂きました。そして、今回は二回目のライブ治療でした。この間一回講演のみで日立を訪問させて頂いたことがあります。

日立駅はとても奇麗な駅であり、改築の済んだ日立総合病院もとても奇麗な病院でした。ライブはとても楽しく快適に行わせて頂きました。

日立総合病院カテ室で
日立総合病院カテ室で

9月の忘備録-2

さてCVITの翌週9月24日には、羽田空港からサンフランシスコに飛びました。これはどうしても避けて通れないインターベンションの学会 TCT (Transcatheter Cardiovascular Therapeutics)に参加するためです。しかも、今回は日本人として唯一の Geoffry O. Hartzler Mater Clinical Operator Award 2019という非常に栄誉ある賞を受賞したのです。

この授賞式準備のために、たくさんの写真を送ることを要請されました。昔の写真、実はあまり無いのですが・・・・、それをスキャンして贈りました。これも大変な作業でした。そして、主催者である Colombia Universityの Martin Leon先生と、Gregg Stone先生から当日何千人という聴衆のいる Main Arenaでインタビューかされる、そのようにも聞かされていました。これは無茶苦茶なストレスでした。実際僕はこの TCTにおいてライブ症例を衛星中継して会場に流したこともあります。しかし、インタビューというのはまた別の経験だったのです。本当に大変でした。

Main Arenaでの受賞記念インタビュー
Main Arenaでの受賞記念インタビュー

正直に言いましょう、このために背広を一着誂えました。これまではスーツと言えば、町中の量販店でした購入したことはありませんでしたが、今回は藤沢駅周辺のデパートで、きちんと order-madeのスーツを仕立てました。人生始めての経験だったのです。スーツの仕立てに3週間以上かかる、ということを初めて知りました。

授賞式を終えて、たくさん方々がお祝いの言葉を投げかけてきました。嬉しいのですが、とても恥ずかしい気分だったのです。まあ何はともあれ僕の方にずしりとのしかかっていたストレスとはこれで開放されたのです。この時のビデオは下記にあります

Master Operator Award 2019 in Main Arena

Master Operator Award 2019 Main Screen

9月の忘備録

9月19から21日は名古屋国際会議場においてCVIT(日本心血管インターベンション治療学会)が開催され、僕もさまざまな役割で出席しました。でももう自分自身で演題を発表することもほとんど無くなっています。皆の発表の座長したり、新たな薬剤溶出性ステント治験のとりまとめしたり、そんな役割です。

夜は「味仙」という中華料理で夕食を摂りました。名古屋市内に3店舗あるらしいのですが、とても賑わっており活気のある非常に大衆的な中華料理の店でした。ラーメンにはとても辛いものもあり、その隠語が「イタリアン」なのです。

味仙のイタリアン
味仙のイタリアン

辛い辛いとは聞いていたのですが、僕には辛くありませんでしたし、翌朝必ず「***が***なる」と散々言われていたのですが、そんなこともありませんでした。

今回のCVITは何だか運営に無理があり、スケジュール管理も重複していたり、どちらかと言えば無茶苦茶な運営でした。今までこんな学会経験したことがありません。それほどひどい運営でした。

気がつけば60年

10月になってから初めてのブログ投稿ですね この間とっても忙しく、また精神的にもたくさんのプレシャーがありました

本日はこれからメキシコに飛びます それまでの間ゆっくりしていると、テレビのニュースで香港での若い人たちが主力となった反香港政庁運動がどんどん激しくなり、ついには警官による実弾射撃の結果、二人の若者が傷ついたことが報じられていました そして、イラクでは反政府運動が激しくなり、ついに数十名の一般市民が殺害された、と報じられています。

そんなことを知ると、昔の何ともやるせない思い出がよみがえっってきます。それは今から50年前の1968年10月21日に新宿西口地下広場で起こったことです。今では「新宿西口騒乱事件」として日本国の歴史で唯一「騒乱罪」が適用された事件として歴史に記録されています。その時僕は大学入試に失敗し、浪人生活をしていてその日も、「駿台予備校四谷校」から自宅のある「阿佐ヶ谷駅」に戻る途中、電車が停まり、新宿駅で降車し、この新宿西口駅前地下広場での大混乱の場面に遭遇したのです。

あたりにはヘルメットを被ったたくさんの中核派、革マル派、その他色々な派閥の学生運動活動家の人々、手には皆角棒を握っていました。それと対峙する形で何百人という完全武装した警視庁機動隊員がいました。その周辺はあの独特の催涙ガスの匂いが立ち込め、時々機動隊員が攻勢をかけると活動家、そして僕も含めて一斉に逃げ出したのです。

僕自身は、その頃政治的にも無関心で、ただ翌年の入学試験再挑戦にパスすることだけを考えていました。その後も学生運動はどんどん先鋭化し、ついには1969年3月実施予定であった、東京大学入学試験は、「東京大学安田講堂事件」により中止となり、全国の受験生は混乱の中、日本各地に散らばって行ったのです。僕もその多数の中の一人として、大阪大学医学部に進学しました。

あの頃の、催涙ガスの匂い、目が痛くなり開けていられなくなる苦痛。そして、制圧する側の圧倒的な武力と装備、それらに為すすべもなく圧倒された敗北感と無力感、それらが蘇ってきました。自分自身もそれからの一年間で、大阪府警機動隊員に隊列を守っていた平和的なデモ行進の時に思いがけない暴力を受け、顔面血だらけとなりました。その時思ったことは、「機動隊員も同じ世代であり、学生運動している学生には反感があるのだろう。そして彼らも色々な精神的圧力の中で追い詰められているのだろう」ということでした。圧倒的な暴力を受け、自分の心は折れると共に、もうそのような活動に戻ることはありませんでした。それも良かったと思います。

今、香港では大変なことが起こっています。50年前、自分が感じたこと、そのように追いやった状況、それと同じ状況なのだと思います。他の国のことなので、何らかの主張をできる立場ではありません。しかし、イラクでも同じようなことが今起こっているようです。これも正確な背景を理解することは無理でしょう。そもそも歴史の中で起こっていることなので、どちらが悪く、どちらが良い、という二進法的解釈は不可能です。

しかし、この混乱の中でやがて人々は傷つき、そして死んでいきます。60年前の「60年安保闘争」では、東京大学学生であった樺 美智子さんが亡くなられました。

何故かそんなことを思い出す今日です。