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 中国訪問記-I
はじめに
 僕は、2003年10月10日に半年ぶりに中国を訪れました。僕は、1990年に初めて北京をPCIのために訪れて以来これまでに100回以上中国を訪れPCIの指導を行ってきました。これまでに訪れた都市は北京や上海といった大都市のみならず、石家荘、あるいは安徽省蚌埠市という今まで日本人がほとんど訪れたことのない地方都市も含め全国50都市ぐらいの病院を訪れてPCI指導を行ってきました。しかし、去年の末から世界中を震撼とさせたSARSが発生して、本年の4月に杭州を訪れて以来、何と半年間も一歩も中国に入りませんでした。近年は、毎月1ないし2回は中国を訪れていたことから考えると、とても想像できない変わりようでした。

 中国に半年ぶりに降り立った時は、やはり感慨がこみ上げてきました。

Hu DaYi先生
Hu DaYi(胡 大一)先生(右)と
 10月というのは北京市にとって最も良い季節です。このため、10月には北京市内では多くの学会や催し物が開催され、市内のホテルはどこも例年満杯となります。今回私は長城国際心臓病学会議という国際学会から招聘され北京を訪れました。この学会は今回で14回目という中国の国際心臓病学会の中では最も古くから存在し、世界の著名な先生方も参加されているものです。学会をその立ち上げ時から主催されているのが、Hu DaYi先生[写真右]です。Hu DaYi「フー・ダイイ」とは漢字で「胡 大一」と書きます。ちなみに日本のテレビやラジオでは中国の方を呼ぶときに、何故か日本語読みで発音しています。これは何故なのでしょう?以前は韓国の方を呼ぶ時も確か日本語読みで発音していました。例えば韓国前大統領金 大中氏が日本こらKCIA(韓国秘密情報部)の手により、高速艇で誘拐された大きな事件が以前にありましたが、この頃のマスコミは皆、「きん だいちゅう」と発音していました。それが何時の頃からか「キム・デジュン」とハングル読みで発音するようになりました。しかし、中国の方々に対する発音は未だに日本語読みです。例えば、周 恩来前首相は「しゅう おんらい」と発音し、北京語の発音である「チョウ・エンライ」とは、決して発音しません。アルファベット表記のZhou En-Laiが即座に周 恩来と分かる日本人はどれだけいるでしょうか? 僕は、これは日本のマスコミの怠慢であり、悪弊であり、すぐにでも改めねばならないと思います。実際問題日本語読みに慣らされていると、中国あるいは外国で中国の話をする時に、一体全体固有名詞が何を指しているのか分からないことになります。地名についてもそうです。例えば瀋陽、これを日本では「しんよう」と呼びます。しかし「シェンヤン」と発音せねば中国のみならず世界では通用しません。アルファベット表記は"ShenYang"です。もっともハングルでは「シン・ヤンあるいはリエゾンしてシニャン」と発音します。

Eugene Braunwald先生
Eugene Braunwald先生(右)と
 さて、第14回長城国際心臓病学会議の英語表記は14th Great Wall International Congress of Cardiologyです。略してGWICCとも呼ばれますが、これまでに世界の著名な心臓病学の先生方が参加されてきました。その中には心臓病学の神様と呼ばれているEugene Braunwald先生も含まれます。[写真右]は1999年にこの学会に僕が招聘され、その後でBraunwald先生と二人きりで臨床試験の進め方に関する議論を行ったときの写真です。当時既にBraunwald先生は82歳ぐらいであり、この学会に参加された後は米国からもはや、お出になることはありません。僕にとって記念すべき写真です。

 さて、Hu先生とは1990年に僕が初めて北京を訪れた時からの友人です。彼は当時北京医科大学第一病院において循環器科教授をされていました。彼のご専門は不整脈に対するカテーテル・アブレーションですが、中国国内でもPCIが広く行われねばならない、という強い希望をお持ちでした。中国でのPCIは最初に行われたのが1985年、西安においてでした。その後、ヨーロッパ、あるいは米国から多数の医師を指導のために招聘しPCIを行おうとしてきました。しかし、その何れの試みも失敗に終わり、ほとんどの症例でPCIが不成功に終わった、ということでした。そこで、当時日本でPCIを数多く行っていた僕に白羽の矢が立った、という訳でした。12月中旬に僕は成田空港から一人で北京首都国際空港に向けて飛び立ちました。正直のところ、胸の中は不安で一杯でした。当時は、あの天安門事件から日にちも浅く、未だ何も知らない中国に対してとても不安な気持ちを抱いていました。北京首都国際空港にはそれまでに一回しか会ったことがないホンコンの人が待っていました。

 今でこそ、北京首都国際空港はとても綺麗な明るい空港であり、空港から市内までは高速道路が走っています。しかし、当時の空港は古く暗いものでした。空港の外で出迎えている人々の半数ぐらいは人民服を着ていましたし、誰一人明るい色の服を着ている人々はいませんでした。空港からの道路は片側一車線の満足に舗装もされていない道路でした。北京第三環状線沿いに北京市の西北の角にあるシャングリラ・ホテルに宿泊しました。周りには誰も日本語を話す人はいませんでした。ホンコンの連中とも慣れない英語で話をしました。12月中旬の北京市は雪こそ降ってはいませんでしたが、とても寒く、朝晩にはマイナス10度ぐらいになりました。翌日は、ホテルを7:00amに出発し、30分ぐらいかけて北京医科大学第一病院に到着しました。そこでは、Hu先生が私を待っていました。彼は、機関銃のような英語で僕に話しかけてきました。Hu先生は、米国に三年間の留学経験があり、英語は非常に達者です。ちなみに、二年前に北京医科大学は北京大学に統合され、現在では北京大学医学部付属病院になっています。

 病院に到着し、カテ室に案内されました。レントゲン機械は今まで見たことの無いフランスCGR社製のものでした。中国は国際的に長く孤立していましたが、その間もフランスのみが中国との国交を保ってきました。このため、当時の中国にはフランス留学経験者が多く、また医療器械もフランス製が多く存在しました。機械は見るからに古く、一体全体病変が見えるのか?と、とても不安になりました。案の定です、技師さんが装置のスイッチを入れても、機械はウンともスンとも言いませんでした。それから小一時間、機械を復旧させるために技師さんは頑張りましたが、駄目でした。もう日本からエキスパートがやってくる、ということでこの日のために患者さんが8人ぐらい用意されていました。そこで、Hu先生は患者さんを安貞病院に移送し、そこのカテ室を借りてPCIを行うべく交渉を始めました。何れにしても交渉および患者さんの移送には時間がかかるため、Hu先生はこの機会に近くの紫禁城に観光に行くことを僕に勧めました。そして、この時初めて壮大な天安門広場、それを取り囲む中国政府の重要な建物、あの天安門事件の時に、戦車が乗り上げた記念碑、その向かいに悠然とそびえる紫禁城をこの目にしました。紫禁城のことを中国では故宮と呼び、英語ではForbidden Cityと呼ぶこともこの時知りました。そうです、紫禁城はまさしくCityと呼ぶに相応しい巨大なものでした。

 午後になって安貞橋のそばにある安貞(アンジン、AnJin)病院に行き、そこでPCIを行いました。機械はGE社製の古い物でした。日本語が通じない環境の中初めて一人で過ごしたため、精神的にぐったりと疲れてしまいました。夜は病院の人々と一緒に会食し、そしてホテルに着いてからはすぐに独りぼっちになりました。「あーあ、もう嫌だ、もう日本に帰りたい」と、心底思いました。実際、翌日逃げ出して帰ろうか、とも思いました。それは、独りぼっちの日本人ということのみが原因ではありませんでした。カテ室に入り、実際にPCIを開始しようとした瞬間、僕は強烈なカルチャー・ショックに襲われました。全てがこれまでの日本での常識からかけ離れていました。清潔になるために手洗い、という作業をまず行いますが、何とそこにあったのは長靴のようなブリキ製の深い容器二つでした。その中にはとてもピリピリするアルコールがたっぷりと入っていました。そして、その中に肘まで手と腕を入れ、ピリピリする中、じっと我慢して消毒するのでした。術衣は茶色く汚れた白衣でした。また、ゴムの手袋は何回も何回も再使用したものでした。イントロデューサーも、ガイドワイヤーも、あるいはカテーテルも、そして三方活栓、ディスポ注射器、また針に至るまで何回も再使用を繰り返したものでした。三方活栓と造影剤のボトルを継ぐラインはゴムのチューブでした。また、造影剤のボトルもプラスチックの入れ物の蓋を開け、その中に注射器で吸った造影剤を入れる、というものでした。当然画像も美しくありませんでした。この時、初めて真実が分かったのです。そうです、何故これまで欧米の著名な医師が何人も来訪したのにほとんどの場合PCIが不成功に終わったのかが分かったのです。彼らは皆、この文化の違いに強烈なカルチャー・ショックに襲われ、その中で自らを失い実力を発揮できなかったのです。僕自身、この強いストレスの中で自分を見失わずに本来の実力を発揮するためには、とても強い精神力が必要でした。そんなこともあって本当に疲れ切ってしまったのです。でも、PCIは大成功に終わり、日本人としての面目を保つことができました。

Huo Yong先生
Huo Yong先生(左)と
 現在中国のカテ室を訪れれば、余程の場所でなければレントゲン機械は最新のものがあり、また僕が味わったような経験はしません。むしろ、「えーっ、こんなに進んでいるの? 日本の方が遅れているな。」と、逆のカルチャー・ショックに陥るかもしれません。実は、僕がこの時PCIを行っている時に、現在中国のPCIを指導する立場の若手医師が熱心に勉強していたのです。その名はHuo Yongといい、現在北京大学医学部付属第一病院においてPCI部門の部長をされています。今回、彼とも再会することができました[写真右]。Huoとは漢字で霍という字であり、三国志に出てくる英雄の名前です。Yongは勇気の勇であり、従って相当に勇ましい姓名、ということになります。彼は今中国国内で非常に人望があり、また学問的にも優れた先生です。

Kiemeneij先生
Kiemeneij先生
 話を長城国際心臓病学会議に戻します。中国では学会のことを会議と呼びます。もちろん長城とは万里の長城のことです。この学会は先にも書きましたように歴史もあり、世界的にも有名であり、参加人数が2,000人以上というとても大きな学会です。学会の内容は、心臓病学の全般に渡ります。外国の有名な先生方の講演のみならず、中国国内の先生方の研究発表、そしてPCIなどのライブ・デモンストレーションが含まれます。学会は北京最高級のホテルである、China World Hotelにおいて10月9日から13日まで開催されました。今回はPCIのライブ・デモンストレーションとして、北京友誼医院(Beijing Friendship Hospital)から衛星中継を用いてこの会場にPCI手技が中継されました。ちなみに、中国語では病院という言葉はなく、医院です。僕は、ライブ・デモンストレーションの初日10月11日に朝から友誼医院カテ室に行き、8:30amから11:10amまでの間に4例の症例に対してTRIによりPCIを行いました。
3人で
Kiemeneij先生(中央)、Jia先生(右)と
北京友誼医院
北京友誼医院
実はこの11日のライブ・デモンストレーションは、僕とKiemeneij先生[写真左上:まるでモデルのように格好良いでしょ?]がCo-chairmenを行い、Jia先生[右写真の右端の先生、ちなみに中央はKiemeneij先生、そして左端は僕]がExecutive Chairmanを行っている第二回国際北京経橈骨動脈冠動脈インターベンション・ライブ・デモンストレーション(2nd Beijing International Transradial Coronary Intervention Live Demonstration Course)も兼ねたものでした。もともとこのライブ・デモンストレーションは本年の6月に予定されていたものでしたが、SARSのために10月に延期されました。北京友誼医院は北京市の中でも二番目に古い由緒ある病院[写真右]で、首都医科大学(Capital Medical University)付属です。二年前に最新型の機械であるGE社製のINOVA2000というフラット・パネルのシステムが導入されました[写真左下]。中国衛生部(厚生労働省に相当)指定の、臨床試験病院であり、中国国内で認可される新薬は必ずこの病院において詳しい臨床試験が行われます。また、外国人用の専門病棟もあり、最新の医療を受けることが可能です。このため、スタッフは優秀なメンバーが多く所属しています[写真右下]

北京友誼医院内
北京友誼医院内
講演の様子
講演の様子
 当日の第一症例は、中国オリンピック・ボート競技代表団の専属コーチである56歳の男性患者さんでした。14年前に前壁梗塞になった後も、コーチを問題なく務められるほどにお元気でしたが、この数ヶ月前から労作性狭心症が出現し、ついには不安定狭心症になっていました。事前に行われた冠動脈造影では、左冠動脈前下行枝(LAD)遠位部の慢性完全閉塞(CTO)、回旋枝近位部(LCX)のCTO、そして右冠動脈(RCA)中部の90%狭窄が判明しました。LADに関しては、とても古く、また閉塞部末梢は副血行路からも造影されず、灌流域も狭いと判断されたため、ターゲットとしてはRCAとLCXに設定されました。
症例
術中の様子
当日一番困難な症例でしたが、これがライブ・デモンストレーション開催最初の症例でした。TRIにより6Frのガイディング・カテーテルを用いて入りました。RCA病変に対しては前拡張無しにステントを植え込んだ後、LCXのCTOに対してとりかかりました。固いガイドワイヤーにより病変通過に成功しましたが、1.5mmのバルーン・カテーテル(MaverickとCrosssailを試しました)によっても病変通過ができませんでした。会場にはJia先生、Kiemeneij先生そしてHamon先生初め多くの中国あるいはアメリカの先生方がおられました。そこで、僕は2.0mmバルーンによって鈍角枝にアンカーを打ち、アンカー・バルーン・テクニックを用いて拡張に成功しました[写真左]。このテクニックは中国では初めて公開されたテクニックであり、会場からは大きな拍手が沸き起こりました。その後、続けて3例をTRIにより治療し、そのまま13:05北京発関西空港行きの便で日本に戻りました。10月9日には宮崎県都城でPCIと講演がありましたので、10月10日に名古屋空港経由で北京に入りましたが、飛行機は大幅に遅れ、結局北京に到着したのは19:00頃でした。従って今回は24時間も北京に滞在しない、という非常に慌ただしいスケジュールでした。


北京市
 北京は中国標準語である北京語(Mandarin)では、Beijing「ベイジン」と発音します。決して「ペキン」とは発音しません。北京市は上海市、重慶市、広州市、天津市と並ぶ中国中央政府直轄都市です。もちろん皆の知る中国の政治と文化の中心であり、首都です。僕が中国を訪れるようになったこの13年間の間に大きく変わりました。現在でも、毎月その表情が変化している程です。古い町並みの多くは解体され、新たに近代的なビルが建設されています。今でも多くの自転車が街の中を走っていますが、ものすごい数の自動車に圧倒されます。市内にはバス、地下鉄といった公共交通機関が発達しています。13年前には自転車は皆、カーキ色か黒かのいわゆる実用自転車でした。しかし、現在では変速機を備えた軽快な自転車が多く、また電動自転車すら走っています。町並みも、そこで行き交う人々の服装もとても色彩豊かになっています。

Jia先生
 Jia先生は漢字で書くと「買 三慶」(Jia SanQing「ジャア・サンチン」)先生となります。さしずめ三つのめでたい物を買う、といった意味でしょうか。彼とも、もう8年ぐらいの付き合いです。彼はHu先生の弟子であり、Hu先生が北京医科大学第一病院から首都医科大学付属朝陽(ChaoYang)赤十字病院に移られてから朝陽赤十字病院心カテ室のチーフとして活躍していました。僕はこの病院を度々訪れ、PCIの指導を行ってきました。また、当方が教えるのみならず、僕の部下数名をこの病院に一ヶ月間の短期留学をさせ、異文化の中での生活、そして年間500例も行われていた不整脈に対するカテーテル・アブレーションを学んでもらうために送り込んだこともあります。また、1996年には中国国内での初めてのTRIをこの病院で行いました。僕が1997年に学会長を務め、東京国際フォーラムで開催した日本心血管インターベンション学会年次学術集会にも彼は参加しました。そして、東京から北京に帰国してすぐに、彼は大量の下血をしました。そして、朝陽赤十字病院で検査したところ、大腸癌であることが判明しました。当時彼はまだ40歳にもなっていませんでした。若いのに癌になったことで、Hu先生は彼に放射線を被曝するカテ室への出入りを禁止しました。そして、手術、その後の抗ガン剤治療そして局所放射線治療を彼は受けました。誰しも、彼が癌から復活してくるとは思いませんでした。僕は、手術の3ヶ月後、朝陽病院を訪れた際に既に退院して自宅静養していたJia先生の自宅を訪れました。奥様は、深刻な表情をしていましたが、Jia先生は意外にも明るい表情でした。

Jia先生達と
Jia先生たちと
 彼は見事に復活しました。その後現在に至るまで一度も再発はありません。1998年に朝陽病院カテ室を訪れた時には、Jia先生は僕に、「何とかHu先生を説得してほしい。僕から心カテ室を取り上げたら、生き甲斐が無くなってしまう。」と、頼み込みました。彼の熱意をくみ取り、僕はHu先生に強く彼のカテ室チーフへの復帰をお願いしました。これによって再び精力的にPCIを始めた彼は、その後1999年に現在の北京友誼医院に移り、そこでカテ室を新たに立ち上げました[写真右上]。そして、現在では北京市内でも有数のPCIを行う病院に仕上げました。こんな長いいきさつからも彼は僕のことを師と仰いで感謝していてくれます。そして、そのような経緯もあり、僕はこの北京友誼医院において医師として採用されました(無給ですが)[写真右下]。ですから、僕にとって朝陽赤十字病院、北京友誼医院、安貞病院、阜外(FuWai)病院、その他多くのPCIを行っている病院のカテ室はとても馴染みがあります。

 僕の強い影響で、北京友誼医院でもTRIが盛んになっています。そして、Jia先生と僕は2002年5月に第一回国際北京経橈骨動脈冠動脈インターベンション・ライブ・デモンストレーションを開催しました。


中国のPCI
 今や中国のPCIはある意味で日本よりも進んでいます。薬剤溶出性ステント(DES)は既にCypherとTAXUXの二種類が導入されています。僕が初めて中国を訪れた1990年当時は、それまでに中国全土で行われたPCI総数がまだ500例という段階でした。ですから当時は中国全土の年間症例数は100例程度しかありませんでした。しかし、現在では中国全土で毎年20,000から30,000例のPCIが行われ、その数は年々急速に増加しています。

 中国国内においてステントの価格は、日本よりも安いですが比較的高価です。通常のステントの価格は大体2,000US$ぐらいだそうです。しかし、驚くべき事にTAXUXなどのDESもこれと全く同じ価格の2,000US$だということです。

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